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シンポジウム



天理につくられていた?


「御座所」をめぐって



日時    :2002年3月31日(日)午後2時〜午後5時
ところ    :奈良県社会福祉総合センター
パネラー  :塚崎昌之さん
       :洪祥進さん
       :高野真幸(事務局)
司会    :川瀬俊治(事務局)

〈川瀬〉
パネラーを紹介します。
塚崎さんは教員ですが、戦争におけるさまざまな歴史的な発掘、十五年戦争下の史実を発掘している方です。
洪祥進さんは、強制連行真相調査団の事務局長をされています。朝鮮人強制連行の問題に関わってジュネーブの人権小委員会でご発言されるなど国際的な場でご活躍されておられます。また日本の地下壕や地下設営隊などの歴史的な問題についても造詣の深い方です。今回の問題でアドバイスをいただけるのではないかと思います。
もうひとり、天理の「御座所」を発見されました高野さんです。この発見は1945年の『朝日新聞』に掲載された記事を裏付けたことになります。
きょうは、皆さんにお配りしましたレジュメに基づいてシンポジウムを進めたいと思います。司会を勤めますのは事務局の川瀬です。
「御座所」という言葉は、われわれにとって耳慣れない言葉です。なぜ座るところに「御」をつけるのか。われわれの日常生活にはまったく関係ない世界です。まず、「御座所」とは何なのかを高野さんから説明をいただきます。

<高野>
『広辞苑』によると、「御座所」とは、天皇もしくは貴人の居室。大本営とは、戦時または事変において設置された天皇に直属する最高の統帥部。その大本営の意味から、大本営は「御座所」と隣接することになります。大本営が東京から移ったのは日清戦争のときに広島に移っています。同時に「御座所」も広島に移っています。
天理の市街地にあったのが奈良海軍航空隊で、南の方が大和海軍航空隊です。それぞれ役割が違っています。天理市街地の北にある一本松山が「御座所」予定地で、今回トンネルを発見したところです。大本営は市街地南の竹之内集落東山麓に予定していました。大和海軍航空隊の柳本飛行場の東です。このトンネル群には、1945年8月1日に中山定義さんが東京から視察に来て、大本営としては小さくて生活に必要な設備がないと手記に書いています。大和海軍航空隊の航空基地図にはこの竹之内には27のトンネルが描かれています。
奈良海軍航空隊は予科練を育成する航空隊で、その予科練2000名が一本松山の「御座所」予定地を掘っていたということになります。
一本松山のすぐ西に大和海軍航空隊の引渡目録に記載されている「奈良隧道」があります。この奈良隧道については以前からその存在がわかっていました。ただし、一本松山のトンネル群については知られていなかった。ということで、いろいろな文献に「天理に大本営・『御座所』」と書かれていても、奈良隧道のことと理解していたようです。そういうことから、「奈良隧道であれば、大本営・『御座所』としては小さすぎる」と言われていたのが現状と思われます。
大和海軍航空隊の飛行場は、本土決戦時に九州に上陸してくるだろうアメリカ軍を撃つために特攻の発進基地とし、その特攻の見送りさせるために天皇を連れてこようと考えていたと思われます。

<川瀬>
いま、お話にもありました大本営ですが、これについては塚崎さんが詳しいと思いますので、説明いただけますか。

<塚崎>
私は、戦争遺跡や本土決戦のことを研究しています。その関係で防衛庁へいって資料を発掘することをライフワークにしています。3年前に高野さんと一緒に探しに行ったことがあるのですが、今回の発掘を聞きたいへん興奮しました。 
本土決戦の地下施設に関する簡単な流れを述べさせていただきます。
日本の軍隊が地下施設を本格的に造り始めるのは、陸軍ではなく海軍で1939年です。なぜこの年に海軍が、それも弾薬庫を地下に造り始めるのか。この年1939年、日本が無差別の大規模空襲、重慶空襲をはじめているのです。きょうの話のポイントは、海軍航空の生みの親、大西瀧治郎です。重慶空襲の指揮をとった人です。この「御座所」にいちばん関わった人もかれです。かれの存在が地下壕とつながっているのです。ただし、この時期は、海軍の弾薬庫や燃料庫といった燃えやすいものに限られています。
本格的に軍が地下壕を造り始めるのは1944年の7月からです。サイパン島が陥落して本土空襲が必至になるからです。本土空襲でばらばらにされても戦えるように、東北部・東部・中部・西部に分けて軍隊の中枢部が入る司令部をつくろうとしました。このひとつが松代です。それから、東京の浅川、愛知の■■、大阪の高槻、福岡の山家、五大地下倉庫です。地下倉庫という呼び名の司令部です。あとは上陸が予想される沿岸の簡単な築城です。この時点では、軍は一度上陸させて内陸部で戦おうと比較的内陸部に地下壕をつくっていくのです。サイパン島でも艦砲射撃をやられたように、上陸時に戦うとあまりに犠牲が大きいからです。
ところが、45年にフィリピンがほぼ敗北すると、中島飛行機や川西航空機などの航空機会社に対するアメリカ軍の空襲が始まります。航空機会社が狙われるのはまずいので、五大倉庫も航空機工場を入れようということになります。そして、陸軍は内陸部ではなく水際で戦うことを考え始めます。
1945年3月に硫黄島が陥落して、3月10日の東京大空襲や3月13・14日の大阪大空襲がはじまります。こうなると航空機工場の疎開だけでなく本格的に地下壕をつくりはじめます。
1945年5月、沖縄戦の敗北が時間の問題になり、大西瀧治郎が海軍軍令部(陸軍の参謀本部と同じ役割で、海軍の作戦・指揮をとるところ)の次長になります。このころから、天理や屯鶴峯の地下壕建設を本格化するわけです。そういう流れのなかで「御座所」を位置づけていただきたい。

<川瀬>
地下施設のできる流れが、塚崎さんの指摘で理解しやすくなったわけですけれども、地下壕・地下施設には、いろいろな特徴があると思います。全国でのいろいろな調査してこられた洪さんから、ご指摘いただきたいと思います。

<洪祥進>
こういった貴重な発見は、戦争遺跡として調べて残すことが必要ではないかと思います。しかし、ただ単に戦争遺跡だけでは問題点が明確にできないのではないか。やはり、過去の侵略戦争が他民族にどのような被害を与えたのか、それと結びついてこそ平和や友好につながると思います。私はそういった視点で、これを、誰が、どこから来て、どのように作ったのか、各地のこれまでの調査実績から推測していきたいと思います。
まず、「誰が」ですけれども、私は朝鮮人だと思います。すでに1939年以降、炭鉱・鉱山に多くの朝鮮人が連行されてきました。「なぜ」、いちばん危険な場所、過酷な作業現場ということで朝鮮人が働いた。難工事で戦争末期の突貫工事であった松代大本営もそうです。最先端で働いたのは朝鮮人です。
参考としていえるのは、香川県の高松市に林飛行場。誰がどのようにつくったのかわからなかったのですが、1980年代に地元の空襲を記録する会が調査を行いました。「ここは強制連行がなかった。日本国内から職を求めて、朝鮮人の親方に連れられてきた方がここで働いていた。」と、会報に書いています。
1990年代、10年前ですが、香川県で調査をはじめました。県に、知事引継書(前任知事から後任知事に引き継ぐ都道府県レベルの最高の公文書)の公開を要望しました。1年以上経ってから知事公舎の書庫から知事引継書が出てきて、その引継書で林飛行場に朝鮮本土から連行されてきたことや数字がわかってきました。
また、高松市が市の広報で「証言を聞く会」を掲載してくれました。そして数十名の地元の方が来てくれました。まちがいなく隔離されたところに朝鮮人がいたのです。さらに軍関係の方もいた。もうひとつは比較的自由な朝鮮人もいた。日本人もいた。こういう証言が出てきました。
空襲を記録する会は、証言者がいないものですから一人(1930年代のはじめに日本に来て、親方といっしょに林飛行場に連れられて土木作業していた比較的自由な人)の証言で全部を認識したのです。ですから、複合的にみることが大事なポイントです。今回の調査もそのように考えています。
「御座所」となると機密、秘密中の秘密だったということで、地元だけでの調査では難しいと思われます。最終的には、総合的な設計や構想を練った責任者を立証する。そのためには、東京周辺でなければ資料の発掘は難しいと思われます。
福岡県筑紫野市山家の大規模な地下軍事施設は、土木建設会社の社史に規模と年代が書いてありました。現地へ行って調査をすると、その概要がみえてきました。まず証言、次に文献が出てきました。戦略爆撃調査団報告書(アメリカ軍が日本に空襲した結果、空襲がどのぐらい効果があったのかを調べるために戦後日本に専門家を1000名以上派遣したその報告書)を作成するために提出した日本政府の文献資料です。そのなかに日本土木建築統制組合が作成した『昭和二〇年度第一次朝鮮人労務者割当票』があり、福岡県山家の施行者は鉄道建設工業株式会社、割当数「400」が書かれていました。この山家の場合から、民間の土木会社が直接連行したというケースも念頭に置く必要があります。最終的には海軍施設隊との関係です。
千葉とか神奈川県でも調査団がかなりのトンネルを調査しました。とくに横須賀は、松代大本営より大きなトンネルからはじまって岩盤も固いものですから多くのトンネルがあります。ところが、なかなか証言が出てこない。地元の人に聞くと「あれは海軍がやっていたよ」、「軍隊さんが掘っていたよ」というところで終わってしまうのです。さらに調査すると、その海軍軍属が朝鮮人だった。東京の公文書館に資料があってわかったのです。新潟県が1945年の10月に作成し内務省警保局に提出したもので、朝鮮人を本国に送りかえしたという報告書です。報告書によると、1945年9月30日に580名の朝鮮人を送りかえしています。そのひとつが横須賀海軍施設部第113部隊469名となっています。第113部隊というのは横須賀のトンネルを掘ったと書いてあるのです。それが確認できたのです。
まだ一部分です。東京都第一建設隊135名、朝鮮人で全部本国に同じ船で送り返しています。埼玉県比企郡高須賀村の東京信越管理局特別作業隊57名。東京都南多摩長瀬村の軍需省第205部隊277名。関東軍需管理部特別作業隊98名。ぞろぞろと出てきた。これは地下壕関係の最先端の資料です。
 調査のポイントは、民間の土木建設作業所、施設隊、軍人軍属、特攻隊などです。証言者としては日本人も、当時勤労隊とかで働いていますから。神奈川ではトンネルを掘った残土、ズリを外に出す作業で朝鮮人が最先端で働いていた。当時の民族差別、日本の軍人を尊重する当時の風潮で、間違いないのかなと思います。
さらに、1942年の8月12日に厚生省で会議がありました。会議の報告に若干間接的に出ています。当日出席者の顔ぶれは、厚生省、商工省、内務省各事務官、陸海軍省、各府県の課長、統制団体役員、協和会会員です。つまり、1942年8月の時点で国内での人手不足は極限に達していたのです。そして半島から大勢の人間を拉致して、主に軍関係の工事に就労させたのです。調査は続いていますが立証されてきました。以前から軍関係にかなりの朝鮮人が、企業として、戦争末期には施設隊として連行され働いたのではないかと思います。

<川瀬>
地下施設の歴史的な中身について語っていただきました。具体的には、地下施設の作業の営みには色濃く民族差別があるということです。
それでは天理の「御座所」については、どのような特徴をもっているのか。当時「現人神」といわれた天皇の移住する場所ですから当然極秘とされたわけです。まだ作業指令書といったような資料は出ておりませんが、天理の「御座所」の特徴について高野さんにご発言をいただきます。

<高野>
天理の市街地には奈良海軍航空隊、南の田んぼには大和海軍航空隊が開設されています。1945年の朝日新聞には、一本松山のトンネルを掘ったのは予科練2000名と書いてあります。予科練2000名ですが、予科練の生徒だけでこのようなトンネルを掘ることはできないであろう思われます。きちんと区画ができていますし、幅約3メートル、高さ約2メートル50センチがずっと続いています。全体の一部ですが、長さは約400メートルあります。
一本松山の南から小径が山の東の斜面まで続いていて広場に至ります。その平坦な広場はトンネルから掘り出したズリを堆積させてできているようです。広場の高さと同じ等高線上に道が作られ、そこからトンネルが掘られています。朝日新聞に上下2段に12本のトンネルと書かれていますが、上段に10本、下に2本がありました。上段の南から3本目が開口しています。なかは崩落している部分もありますが、400メートル歩いて入れます。このトンネルの内部の構造からすべてのトンネルとどうつながっているかは、あとのトンネルの入り口が崩落しているので推測できません。
竹之内には大本営の予定地のトンネル群があります。このトンネル群の資料については、大和海軍航空隊の引渡目録に、「大和基地防空関係弾薬格納位置図」と「同格納明細票」があります。また、大和海軍航空隊の航空基地図に27のトンネルが描かれています。トンネル群の周辺には、兵舎があったと証言のある場所、コンプレッサーを置いたコンクリート製の台、コンプレッサーから圧縮空気をトンネル内部に送っていた鉄パイプが残っています。飛行機格納防空壕については、「父親がトンネルを掘る朝鮮人労働者の親方をしていて、トンネルからズリをトロッコで運び出していた」と証言する在日朝鮮人女性がいます。

<川瀬>
洪さんの指摘にもありましたが、全長400メートルの地下施設を掘削する工事そのものは、塚崎さんから指摘のあった1930年代の後半から始まった地下施設の建設と合わせて考えると、朝鮮人が何らかの役割を担わされていたことが言えるわけです。この「御座所」についてはどのように考えておられますか。

<高野>
現在天理市に在住する3人(小野久治郎さん、平木一雄さん、森田泰和さん)の証言があります。
小野久治郎さんは予科練の教官をしていた人です。小野さんは当時予科練を使って一本松山にトンネルを掘らしていました。予科練の生徒は知らなかったが、小野さんは、掘っていたトンネルは「御座所」であると聞いていたと証言しています。
平木一雄さんは、天理教の関係者で、戦争中か戦争直後かわからないが、内部には電球が点々とついていて、真ん中に15畳か20畳ぐらいの「御座所」があったと証言し、「トンネルの内部に入った。トンネルは一本松山の周囲から12本掘られていた。」とも言います。また、トンネルの入り口には良質の桧材がつまれていたが、戦後すぐに何者かに盗まれ責任をとらされています。盗まれたのは、桧材のほか高島屋に発注した「御座所」の調度品もあったと言い、1945年の朝日新聞の記事と符合しています。
森田泰和さんは、戦後一本松山のトンネルに入っています。森田さんの親戚の家に寝泊りしていた将校に連れられてトンネルに入り、電球が点々とついていて、階段を下がったところに15畳ほどの空間があり、将校が「御座所」だと説明してくれたと証言しています。トンネル内部は板が張りめぐらされていたようです。

<川瀬>
このトンネルは素人には掘れないわけですが、どうなっていると思われますか。つまり民族差別によって朝鮮人は全国の地下施設で主導的な役割を果たしていた、と洪さんは長年の調査から結論づけておられるわけですが、天理の「御座所」についてはどう考えられるでしょうか。

<高野>
さきほどの3人の証言者は、朝鮮人の存在については知らないといっています。小野久治郎さんは、予科練はズリを外に出す作業ぐらいしかしていないのであり、専門家がいたのだろうと言っています。ただ、いままでの聞き取りでは、このトンネルに関する限り朝鮮人労働者は出てきていません。
平木一雄さんは、奈良航空隊の施設を整備するのに朝鮮人労働者が来ていたことは証言しています。この朝鮮人労働者がどこを飯場にしていて、戦後どこに行ったのかも話していました。しかし、このトンネルについての朝鮮人は知らないといっています。

<川瀬>
トンネル工事はかなりの専門領域におよぶということからして、小野さんの、予科練はズリを運ぶだけという発言は妥当性があるように思われますが、それでは内部を掘ったのは誰かについては証言を得ていない。このような構造になっている天皇の「御座所」、全国の地下施設についても同様の構造がみられると思いますが、洪さんにご指摘いただきます。

<洪祥進>
岩盤は硬いのですか、軟らかいのですか。

<高野>
ここの岩盤は「天理砂岩」という赤っぽい石です。天理砂岩は、軟らかいといえば軟らかいのですが、硬いといえば硬い。じっさいにダイナマイトをいれる穴があいていますので、鶴嘴で加工することはできますが、鶴嘴で掘っていくということはできないと思います。

<洪祥進>
岩盤によって、総人員数がかわります。軟らかい場合は落盤する可能性があるので、なかなか掘り進めない。硬い場合は、削岩機で穴をあけ、ダイナマイトを爆発させ、どんどん進んでいくことができます。当時の防衛庁の関係者が、軟岩と硬岩によって、1立方メートルあたりの人員の概数を出しています。硬岩、硬いほうが掘りやすかった。
兵庫県西宮甲陽園の「朝鮮国独立」と書かれたトンネル(市の開拓事業でトンネルの入り口が出てきた)があります。兵庫朝鮮関係研究会のメンバー鄭鴻永さんと私はいっしょにトンネルに入りました。鄭鴻永さんは予科練200名のリストがあるとその全部に手紙を出しました。約30パーセントの返事が返ってきたといいます。そのなかで、いろいろとヒントが出てきました。施設隊の名前がわかっていたので、すべての施設隊のことが出ている「海軍技術施設調査官の記録」を手当たり次第に調べました。
ですから、天理の「御座所」でも今後、調査を一気にひろげる必要があると思います。調査団が現在調査中の横須賀のトンネルでは、当時の土木関係の作業所に連行された直接の当事者が秋田県にいたのです。秋田県の調査団がたまたま本人にお話を聞いたときに、「私は横須賀の久里浜に連行されて働いた」と。
私は朝鮮人が働いていたという前提で話しますが、朝鮮人で直接働いたという当事者は、そう簡単に出てこないと思います。
もうひとつ、いま、最先端の1944年・45年の強制連行調査対象地は朝鮮半島の北部です。もう43年・44年までには南部の若者はほとんど連行したのです。44年になると北部からの連行です。さきほど、新潟から送りかえしたといいましたが、行き先はおそらく北部でしょう。ですから、いま北部からの連行が大きなポイントとなっています。
愛知県半田市の中島航空機で働いた朝鮮人は、厚生年金の名簿によると本籍はすべて現在の北朝鮮でした。1944年です。
岡山県の三井玉野造船所も、会社内部資料の社報のなかに、「南にはいないから朝鮮の北部から44年12月に連れてきた」、とあります。朝鮮人が強制連行された39年から45年の間で一番大きな強制連行は44年です。これをやらなければ、全容解明は不可能です。この都道府県ごとの統計数はなにもないのです。闇のなかの調査です。ということで、5年前から全国の調査団に呼びかけて調査してきて、だいたいわかってきました。さらに、これらの関係者の名簿が24万人あって、そのうち調査団のもっているのは3万名ほどです。じつはこの朝鮮人軍人・軍属関係者の名簿が厚生省から韓国政府にわたっています。韓国のNGOなど、過去の清算をやっているグループと調査団は連携をとっていますので、早ければ今年の6月か7月ごろに全部が公開される可能性があります。
それをみたら、おそらく、現在の朝鮮民主主義共和国の情報が入っているはずです。そのなかに、軍事関係の施設隊とかの名前が出てくる可能性が十分あると思います。

<川瀬>
十五年戦争末期の地下施設については、朝鮮民主主義人民共和国、共和国の出身者が連行された例がひじょうに強いと洪さんから指摘を受けました。1945年の屯鶴峯地下壕突貫工事における朝鮮人の出身地についても、強制連行の歴史的構造と深くリンクしているのではないか。そういう意味で、これから発表される資料を調べ、予科練の生徒さんの聞き取りを進めなければならないと思いました。
高野さんと私は地下壕に入っておりますが、塚崎さんも入っておられます。どのような感想、特徴を感じておられますか。

<塚崎>
さきに洪さんの話のフォローをしておきますと、『日本防空史』という本に、トンネルを掘る人数・時間の計算式が出ています。私が入って、あの規模を考えると、私の感覚では、延べで2万から4万、3万人ぐらい、工期が60日から90日の間と思います。そうすると1日に300人から500人ぐらいで2交代か3交代になりますから、1回二百数十人働いていたと類推します。トンネルを掘るのには、1回にさほど多くの人数がかからないのです。
大阪の高槻に五大倉庫のひとつ「タチソ」では、証言等で3万や数万という数字が出ています。たぶん心象風景で、朝鮮人がしんどかったということでは数は正しいのでしょうが、それはありえない。いまの計算式からすると、1000から2000人です。発破をかけて、ズリを運ぶ人、せいぜい1チーム10人前後です。それが2交代か3交代です。
一本松山のトンネルで、一度に何ヶ所掘れるかを考えると、だいたい15本ぐらい。15本かける3交代で、だいたい450人。だから、トンネルを掘ったのは300から500ぐらいの間だろうと。要するに、予科練2000というのとは、まったくあわない。
誰が掘ったのか。私はこれについては、慎重に検討していかなければと思っています。とくに天皇関係で、いかに機密を保つかという問題がありますから。ひとつには、民間会社は働いていないと思います。戦後、土木会社で、「華鮮労務対策委員会」をつくって、8月15日以降、働いていないのに、彼らに飯を食わせた、宿舎に泊めた、帰るときにお土産までもたせた、ということにして政府からお金を出させようと策動をします。そのときのデータが出ています。奈良県は、民間土木会社の強制連行者はゼロで算定しています。あれば絶対に儲かりますから出さないはずがない。ただし、強制連行でない自由労働者は2240人働いていたという記録があります。では、朝鮮人強制連行者がいなかったのかという問題は別です。土木会社が使わなかったのであって直接軍が使った分については、これには載っていないからです。
陸軍は、屯鶴峯は第19地下施設隊ですが、地下施設隊は1945年からつくりはじめました。それまで陸軍は民間に下ろしていました。自分たちではやっていません。
海軍は、初期の段階では自分たちが直接使っていました。中間は民間に出すということが多いのですが、45年に入りますと、また直営でやることが多くなります。私が関わっている大阪茨木の海軍倉庫は、熊谷組が1944年の11月に掘り始めています。45年の2月からは海軍が直営で掘っています。ちょうどその時期に、熊谷組の社長が日記を残しています。「このごろの海軍はけしからん、なんでも直営、直営といって仕事を取り上げる」と、文句を言っています。
茨木の安威のトンネルも海軍が直営で朝鮮人を使ってやっています。証言によると、北の方からであっただろうと言われています。
奈良の第一大和航空基地は、5月15日編成された581設営隊が担当しています。本格的な本土決戦の準備が始まるときです。もうひとつ6月15日に編成される588設営隊があるのですが、この実態がよくわかりません。任務は島津航空機株式会社の第一大和進出ですが、「島津」というのがいまひとつわからないところです。
甲陽園は、設営隊が日本人で、その元に民間会社を使って設営しています。この段階になると直営になるのです。
もうひとつ、これは掘り始めてすぐに敗戦になったのですが、高槻に人間魚雷の回天とかのバッテリーをつくる地下工場を掘り始めました。これは515設営隊です。この兵隊は田辺海兵団で組織されています。田辺海兵団というのは田辺にあった海軍の兵士の教育機関です。田辺海兵団は、在日朝鮮人と在日台湾人を集めてつくった海兵団です。要するに、515設営隊はほとんどが朝鮮人と思われます。このような流れもあります。
この辺のことも一度追求する必要があると思います。じつは、設営隊の隊長レベルは、まだ存命の方が多いです。東大、京大の土木を学んだエリートで、早めに卒業してすぐ隊長クラスになっています。その隊長の名簿を私は苦労して手に入れました。

<川瀬>
「御座所」における掘削工事で、証言に出ていない部分を簡単に断言するわけにはいかないのですが、いまおっしゃった方法で調査を進めたいと思います。
つぎに、一本松山につくられたトンネルが天皇の「御座所」であると断定できるのかどうかという点です。というのは、たとえば、屯鶴峯の地下壕について調査を進めていたときに、周辺の柏原にある地下施設については皇族関係の来る施設であるという伝聞がありました。日本各地で皇族・天皇に関わっての地下施設という伝聞があります。「みんなが言っておっただけ」という見方をする人もいます。はたして、天皇の「御座所」としての断言・断定というのは、どのように考えればいいのか。作戦指令書が防衛庁にあって、具体的に記述したものを見つけることが可能であればいちばんいいわけです。とりわけ、極秘の施設ですので、公文書として残っているのはひじょうに難しいと思います。そこで、断定する理由を高野さんから話していただきます。

<高野>
まず、『戦史叢書』などの文献資料に「大和基地付近」との記述が多くあります。具体的な文献というのは、これはガイドブックに記載したのですが、
『月刊大和タイムス(1950年3月号)』に、
1945年7月、「大本営陸海軍部や陸海軍省、宮内省、内務省等から連合調査団」が柳本飛行場に飛来し、丹波市町を来訪、「それから間もなく丹波市町豊田山に掘られた大きな防空壕に、天皇の御座所をしつらえるべく、たくさんの檜が運ばれ、工事にかかったことは事実」。
『戦史叢書〔大本営陸軍部10〕』に、軍事課稲葉正夫中佐回想手記口述を引用しての記述、
「大本営の西遷が論じられたとき陸海軍関係者が視察を行ったが、高槻は進捗しておらず、奈良県の海軍の施設も不十分で大本営としての使用は困難であったという。」
高木惣吉の『終戦覚書』には、
「更にもう一つの別の難題は、大本営移転説の台頭であった。陸軍は勿論長野県松代へ移転を予定していたのであるが、大西を中心とする軍令部側の意見では二つの案が考えられ、一つは陸軍と同じく一挙に長野に入る案、もう一つは一応大和基地に進出した後に、他の適当な処に移るべしとする案であった。」
中山定義の『一海軍士官の回想』には、
1945年8月1日、「大和大本営の下検分」のため厚木飛行場から大和基地に直行する。「われわれ一行は、日帰り計画で、一日朝、小型輸送機に乗って厚木飛行場を飛び立った。顔ぶれは軍務局第一課の大谷稲穂大佐が団長格で、通信、施設、補給その他の担当者たち計七、八名が海軍省各部から派出されていた。
天候も良く、往路は極めて順調に大和基地に直行した。基地では午前中、第三航空艦隊参謀長山澄忠三郎大佐から詳しく案内をうけることになったが、折りしも敵艦載機P51の執拗な超低空機銃掃射の歓迎を受け、おちおち視察もできない有様であった。
問題の地下防空壕は、大和航空隊の東方、竹の内の山中の渓谷に掘った横穴式のものであった。約一〇〇メートルくらいの間隔の二つの入り口から、奥の方へ約八〇メートルくらい掘り進んだところで、前記二壕は横穴で連結されている。生活に必要な施設は何ひとつなく、何よりもその規模の過小なことは致命的と思われた。」 と大本営予定地の隧道のことが記されています。
さらに、中山定義の『一海軍士官の回想』には、
その8月1日、「基地の廊下で、突然宮城桃郁軍医長に飛びつかれたのにはびっくりした。」 とあります。
その宮城桃郁さんは、戦後天理で病院を開業しているのですが、1973年の「天理地区医師会ニュース」に、 「八月八日航空隊司令から重要命令を受け、舞鶴海軍病院に派遣されていた。いよいよ本土決戦の時だ。中央から司令部が当地に移転する予定である。そのための薬剤、医療材料、医療器具を受け入れて整備へよとのことだった。(中略)約一週間の作業により数十個の荷物の梱包が終り、さあ搬出と言う日が八月十五日であった。」 と書いています。
このようにいろいろな文献にあることから、海軍が、大本営・「御座所」を予定していたことがわかります。伝聞によるものとは別個のものと考えています。
断定できる資料としてもう一つ、1945年11月13日の『朝日新聞』があります。見出しに「空し大和地底城」「陛下お遷しの計画」「穴掘りに蠢く二千の゛豫科練″」とあり、具体的に固有名詞を使って記述しています。
記事のなかの固有名詞はすべて事実です。「豊田区の辻中政太郎」さんは、当時いましたし、現在息子さんが生存しています。「北村隊長」「豊永中尉」については、小野久次郎さんがその存在を知っていました。「山名大教会信徒詰所を築城本部」も確認しています。「上下二段十二番坑」もそのとおりです。

<川瀬>
これまでの3人の発言に関わって、質問があれば、お願いします。

<吉川好胤>
588設営隊の話をもう少ししていただきたい。588設営隊は6月15日に編成され、そして大和に出かけてくるそのあたりを。確証はないのですが、「御座所」のトンネルと関わっているのではと思いますので。

<塚崎>
588設営隊の任務は、島津航空機株式会社の工場防護のために大和に進出となっています。島津といえば、島津製作所と思いますが、わからない点が多いです。
なぜ奈良だったのかという問題ですが、陸軍は松代、信州で神の州につながるから、というのに対抗して奈良は天皇家発祥の地であると語られることが多かったわけです。
陸軍も戦争末期になると水際作戦(特攻と同じです)、海軍の状況はもっと悲惨で、海軍の艦隊は動きません。残った艦隊は呉に係留して高射砲代わりにして、呉の街を守っている。海軍には陸戦部隊がほとんどないので、海軍に残されているのは海上特攻と航空機特攻しかないのです。そこで、どういう作戦をとるのか。まず場所としていちばん適当な場所を選ばなくてはなりません。まず九州が考えられます。九州の近くに特攻の基地をもっていくと、すぐに最前線になってしまうので、それはできない。関東に関しても同様です。じっさいにアメリカ軍は、1945年11月1日に「オリンピック作戦」として九州上陸を、46年3月1日に「コロネット作戦」として関東上陸、このような作戦を立てていました。日本の大本営もそれを読んでいます。
中部軍は、中部が分断されて危ないと言いますが、大本営は相手にしません。だから、近畿地方には、本土決戦部隊は和歌山と兵庫県竜野の2師団しかありません。近畿には上陸に適した地点は、和歌山紀ノ川しかないので上陸はまずないと踏んでいました。
要は、比較的アメリカ軍の攻撃が遅いと考えられるのが近畿地方です。大阪湾沿岸は陸軍が全部押さえていますのでその周辺。戦争末期になると、陸軍と海軍は、ある程度の協調歩調をとらなければなりません。そこで隣接している大阪の陸軍大正飛行場に航空総軍(陸軍の航空部隊)を、天理の海軍飛行場に海軍総隊(特攻作戦、陸上部作戦を指揮する)を、そして真ん中の屯鶴峯に航空総軍の戦闘指揮所をもってこようとした。その意味で合理性のある場所ということになります。それと、あとからつけた天皇家発祥の地という、みんなを説得しやすいということです。
では、なぜ特攻基地に「御座所」がいるのか。ここからだけ特攻が出るわけではなく、総指揮をとるのがここであるということです。
ポイントは大西瀧治郎です。このころ4つの大きなグループがありました。陸軍はほぼ徹底抗戦派で和平派はいません。宮中和平派には、木戸幸一内大臣。海軍は、和平派と抗戦派の二つに分かれます。和平派が米内光政海軍大臣。海軍抗戦派の代表が大西瀧治郎です。大西瀧治郎がこう言ったと書き残されています。30年ほど前の草柳大蔵著の『特攻の思想』に、妻に大西が話したというのを、草柳は妻から聞いて書いたものです。
「こんどの戦争だって、はっきりいえないが、負けるかもしれんしな。戦国時代には、どこの領主もみずから陣頭に立っておるよ。日露戦争のときも、明治大帝は広島の大本営にお出ましになり、親しく戦局をみそなわされている。それがいま、今上陛下は女官に囲まれて、今日なお家庭的な生活を営まれている。ここのところは、ひとつ陛下ご自身にお出ましになってもらわんと困るのだがなあ」 と。要するにかれは、見送らせたかったわけです。大西瀧治郎は日本にいても妻の家庭料理を食べていません。特攻兵士が苦しんでいるのに自分はそんなことできるかと。だから天皇に対して批判的です。
この間、新聞記者と一緒に入って、私にしつこく「これは、天皇が住む所にしては貧困すぎませんか」と聞いてきました。陸軍はものすごいのを造っていますね。8月14日に御前会議をやった「御文庫」は10トン爆弾にも耐えられるといいます。普通の大きいのが1トン爆弾ですから。松代大本営も奥が深く頑丈にできていて、これも10トン以上の爆弾に耐えられるように造られています。それから、神奈川県の座間の厚木航空基地に陸軍士官学校にも防空壕を造っています。
草薙大蔵が書いているのですが、かれらは天皇あっての国家と思っているのです。ところが、大西は国家あっての天皇と考えているのです。天皇にそれほど重きを置いていないわけではないのですが、要は、見送らせたい、それだけのことです。
大西は、ここに永久的な「御座所」を考えたわけではなく、一時の行在所(あんざいしょ=天皇が旅先に設けた仮の御所)と考えたのです。ですから、松代の場合は放送局からすべてを引き連れてくる壮大な計画を立てていますが、奈良の場合は、ただちょっとの連絡機関があればいいというもので、貧困です。
竹之内の隧道が大本営という話がありますが、竹之内の隧道の形を見ますと大本営とはいいがたい。トンネルの掘った断面と平面図をみると使途がわかります。竹之内の隧道は「コの字」型で弾薬庫です。250メートルの隧道は飛行兵のための防空壕と思われます。このようなことを考えると、一時的な行在所であって、ある程度見送らせたら、大西はそれで気がすむということでしょう。
これは、大西が独り相撲をしたのかというと、そうではない。海軍の抗戦派のガス抜きをするために大西にある程度のことをやらせてやった。抗戦派の陸軍は、海軍や宮中の和平派がいますので大西派たち取り込まなければならない必要がある。海軍和平派も話に加わっていますから奈良の「御座所」を認めています。陸軍の徹底抗戦派の河辺虎四郎もその話に乗ってきています。海軍和平派も陸軍の抗戦派も存在を認めている。もし、戦争が長引けば、かなりの確立で来た可能性が高い。その後松代に移るはずだったのでしょう。
一本松山のトンネルの形は燃料庫とか工場とかの形ではありません。左右に広がるとか、ひじょうにわかりづらい形をしています。これは、主に人員、「御座所」は別の崩落したトンネルかもしれませんが、会議室とかに用いられる形ではないかと思います。日吉台の海軍連合艦隊司令部の造りと似ています。そういうことから考えると、一本松山のトンネルは司令部等の重要な施設を置くトンネルであったと考えます。

<川瀬>
松代大本営の地下施設には天皇の「御座所」もあります。私も行って規模の大きさを知っていましたから、天理の「御座所」はほんとうかいなと思いました。塚崎さんから、ポイントは最初の段階で大西瀧治郎だとおっしゃいましたが、戦争末期における抗戦派・和平派の政治的な葛藤も含めて考えてみなければならないと、深い示唆をいただきました。その他何か質問があれば。

<塚崎>
天理の一本松山につくられたトンネルを「御座所」と断定する理由として挙げられている、大和基地では特攻隊を組織し第二大和基地(奈良県五條市)に配置していたことに関しては疑問があります。全国にたくさん飛行場をつくったので第二大和からだけ特攻が出るわけではありません。第二大和基地は、直接天理と結びつけるのには無理があると思います。第二大和基地は「牧場」と呼ばれる飛行場です。アメリカ軍はほとんどの日本の航空基地をつかんでいますので、1945年の5月・6月段階で慌ててつくるのです。600メートルぐらいの小さい飛行場でギリギリ飛べるというものです。ふだんは車輪をつけた小屋などを設けて、使うときにはそれをどけて飛行機を飛ばすものです。これをたくさん設けたのは九州や関東地方です。近距離でアメリカ軍と接触するためのものです。大和基地の所属する近畿地方を統括する海軍大阪警備府は2ヵ所しか「牧場」をもっていません。徳島の市場とここです。淡路島や和歌山にアメリカ軍が上陸したときに備えるための特攻基地です。これが日本全体の特攻作戦に関係するかというと無理があると思います。

<吉川>
一本松山のトンネルについては、私も1992年の8月に、ここの電気工事をしたという生駒に在住していた青木長一さんの案内でみせてもらったことがあります。その人に、朝鮮人が関わったかどうかを聞いたのですが、「朝鮮人は関わっていない。秘密裏にすすめなければならないから予科練だけでやった」という答えでした。
兵隊の(工事)現場の飯場は、山のなかにあったとその人から聞いていますが、これは新聞記事(1945年の朝日新聞)と一致しています。もしも朝鮮人が関わっていたとしたらその飯場はどこにあったのか教えてください。

<高野>
平木一雄さんは、天理市街地に親方が朝鮮人の朝鮮人だけの飯場が3つあった。しかし、この朝鮮人は奈良航空隊の練兵場などをつくる仕事をしていて、一本松山の現場に朝鮮人がいたかどうかは知らないと言っています。
新聞記事に、山中に30棟の兵舎が建っていたとありますが、地元豊田の人は、一本松山のトンネルの谷をはさんだ向かいに平坦な場所があり、そこに兵舎がいくつも建っていたといいます。その兵舎は数センチほどの分厚さの松材が使われていて、印象に残ったようです。
さきほど出ました第588設営隊の件ですが、当時柳本小学校に通っていた人の話では、柳本小学校に第588設営隊の看板がかかっていたということです。看板は、奈良航空隊の本部があった名東詰所にも「三重海軍航空隊奈良分遣隊本部」の看板がかかっていました。写真が残っています。
塚崎さんの話にありました第二大和基地ですが、柳本飛行場にいた相澤さんという人が、1945年8月13日に命令を受けて第二大和基地に自動車で移動しています。第二大和基地に着くと、張り紙があり、特攻に出る順番が書かれていたということでした。第二大和基地には飛行機はなく、特攻には出ていないわけですが、8月15日まで無線で他の基地から特攻が出ている状況を聞いていたと言います。

<吉川>
洪さんから岩盤の話が出ましたが、天理の岩盤というのは屯鶴峯の岩盤と似ていると思います。屯鶴峯は凝灰岩質の砂岩です。ほぼ屯鶴峯の岩盤と同じと考えていいと思います。硬いようで軟らかい、掘りやすいが崩れない。屯鶴峯の天井の剥落はありますが、それでももっています。入り口は崩落しますが、中は安定しています。

<高野>
一本松山のトンネルは、屯鶴峯からみると崩れやすいというより崩れています。大分の宇佐に土のトンネルがあるのですが崩れていません。一本松山はあちこちで落ちています。

<田中正志>
岩の感じはそれぞれ違います。屯鶴峯(凝灰岩)そのものは、軟らかいけれども粘り気がある。一本松山の方は全体として脆い感じがします。

<塚崎>
一本松山のトンネルも、入ったところには鶴嘴の跡がきれいに残っています。だから、軟らかくて硬いということになります。

<吉川>
大和海軍航空隊と天理の予科練との関係は、青木長一さんは関係ないと言うのですが、どう考えたらいいのでしょうか。

<高野>
飛行機が飛行場へ来るのは、美保航空隊からで、1945年2月1日から11日です。奈良海軍航空隊の予科練がここで訓練するということはなかった。奈良航空隊には甲種の13、14、15、16期と、一本松山のトンネルを掘った乙種が来ていました。ここの予科練は柳本飛行場があったことさえ知らなかった人も多いです。

<川瀬>
「投げかけられた疑問に応える」で、まだ説明していないことがありましたらお願いします。

<高野>
柳本飛行場の引渡目録に「49機のゼロ戦」が記載されているし、ゼロ戦に乗ってやってきた人の証言もあり、写真も残っています。しかし、「柳本飛行場は、完成する前に終戦となった」と『天理市史』に書かれているのです。「赤トンボが2,3機あったぐらい」というのが、一般的な認識です。 そういう意味で、『天理市史』のような認識では、「こんなところに天皇が来るわけがない」ということになると思います。

<川瀬>

最後にパネラーの方から2項目聞きたいことがあります。それを踏まえて付け加えることがあればお話いただきたいと思います。
天皇の「御座所」発掘に関わる歴史的な意味と、今後どういう形で聞き取り、文書発見をしていくのか、これまでの経験を踏まえて、ご発言をいただきたいと思います。

<塚崎>
この戦争がどういう戦争であったのか、誰のための戦争であったのか、というのを見極めるだいじな遺跡だろうと思います。大西瀧治郎のやろうとしていたことは、日本人は全員で死のうということです。逆に和平派にしても、天皇のことだけしか考えない、国民のことを考えない、そういった和平を目指していたわけです。そのへんで、朝鮮人の位置づけも出てくると思います。
今後の資料発掘調査ですが、日本軍の資料は奈良県の政治家某先生が証拠書類を全部抹殺せよと指令を飛ばし、抹殺されているので、60年前の戦争遺跡は誰も何もわからない状態です。
しかし、日本ではなくアメリカに残っています。まだ日本には入ってきていません。アメリカの公文書館にあり、ダンボールの山と格闘して探し出さなければなりませんが、何の施設であるのかについては残っている可能性があります。
働いていた人間の資料をもっている可能性があるのは警察と内務省です。旧内務省は、朝鮮人がどこにいて何をしていたのかをすべてつかんでいるのです。ところが、内務省はいっさい今までそういう文書は出そうとはしない。公開させる一つの方法として、なかなか計画しながら進んでいないのですが、「戦時被害調査法」を超党派で成立させ、戦時中の資料(旧内務省関係の文書)を出させようとする動きがあります。

<洪>
これまで甲陽園、千葉、神奈川、群馬、各地をまわりながら、これ以上少ない資料・文献で公表してきました。それ以降、それを確定する内容が出てきました。一本松山のトンネルが「御座所」を前提に造ろうとしていたということは間違いないと断定していいのではないかと思います。
また、地域性を考える必要があると思います。アメリカの空襲の目標は、軍需工場です。そのつぎが飛行場です。奈良は空襲の目標になることも少なく「御座所」を移す可能性もあったのではないか。松代大本営も、すぐ近くに飛行場があったし、奈良という地域性から考えても十分可能性があったと思います。
今後の調査ですが、どこから何が出てくるかわかりませんから、できるだけ幅広く、国立公文書館とか、すぐ近くにある文献とか図書館の資料とか、すべての方々が1パーセントとか0,5パーセントでも頭に入れておいたら、図書館にいっても視点が違いますよね。そういったことで、出てくる可能性が十分ありえます。
ポイントとしては、関係している方がまだ全国には生存しているのではないか、ここにいる人が一人50通あて先書いて往復はがきで送れば、必ず2、30パーセントは返ってきます。
もうひとつは、韓国に名簿があります。93年に日本政府が24万人の名簿を韓国政府に送りました。厚生省がつくったものです。部隊名まで出ています。奈良県とか地域名、何年何月まで出ています。名簿はソウルにあります。

<高野>
戦争末期にどのようなことが起こっていたのかを生徒に知ってもらうには、戦争遺跡をじっさいに見てもらうというのが、いちばん手っ取り早いと思います。
今後の資料調査ですが、いろいろなところでやっている方法として、たとえば大分県の宇佐市では市の広報に載せて証言を集めています。それから、この「御座所」について、新聞でも全国版に載れば、いろんな証言が集まると思うし、知っている人はいろんな情報を提供してくれると思います。

<川瀬>
広い視点から、そして積み重ねてこられた蓄積から、天皇の「御座所」についてご発言をいただきまして、立体的に、歴史的に浮かび上がってきたというのが感想です。さらに今後の調査については、さまざまな方法があるという示唆をしていただきました。
この「御座所」は、戦争そのものを問う歴史遺跡として捉えることによって重要なメッセージをわれわれに伝えてくれます。現実に、4月13日には大阪からたくさんの方々がツアーを組んで見に来られることになっています。そういう意味で、そういう方々にも伝え、関心ない方にも伝わるような方法で、天皇の「御座所」の問題をさらに深めていきたいと思います。
2時間20分にわたるシンポジウム、休憩時間もなく進めさせていただきましたが、ひとりの退席もなく、ご発言を聞いていただきましたことに深く感謝いたしまして本日のシンポジウムを終らせていただきたいと思います。ありがとうございました。

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